敵にそこまで言わせる魅力溢れる武将

「戦国最強の武将は誰?」と言われれば、必ず名前があがるのが越後の龍、上杉謙信。1530年~1578年、享年49歳。上杉氏の家紋は「竹に雀」、仙台の伊達氏も「竹に飛び雀」の紋を使用しているが、これは上杉氏から譲られたもの。

幼名は「虎千代」7歳の時に北越後にある豪族の家の養子となるハズだったが、これを頑なに拒んだために父の怒りをかって、春日山林泉寺に預けられ仏門に入る。この仏教の教えが彼の一生に影響していくこととなる。

謙信とにかくは優しく、戦国時代には不向きな性格であった。しかし、守護職、越後の領主となった以上は民やその領地を守らなければならない。不殺生を教えとする仏の教えに反することになる、謙信は悩み続けた。

そして、戦いの仏「毘沙門天」を自らを毘沙門天の化身とし、人々を救い越後を護っていく決心をする。川中島の戦いが有名で、甲斐の虎と呼ばれた武田信玄と、越後の龍といわれる上杉謙信が激突する。

川中島の戦いは上杉謙信が侵攻したことになっているが、これには少し理由があり、もともとそこにいた北信濃人衆が武田信玄に攻められ、追われたところを上杉謙信に願い出て信濃奪還作戦となったわけである。

上杉謙信は戦国武将では珍しく、領土拡大に出ることはなく無駄な戦を避けてきた。これが講じて、「短期決戦には強いが、長期戦は苦手」と言われる由縁。領土拡大には長期プランが必要とされるが、自国守備には補給路の開拓など長期的なプランは必要ないのだ。

そのため、防衛はめっぽう強い。永遠のライバルとして武田信玄があげられるが、これは後につけられたイメージ。実際は上杉謙信の圧勝が多く、武田信玄は敗走を繰り返している。

第四次川中島の戦い、「八幡原の戦い」で総大将同士の一騎打ちの話もあるが、後世の創作であろうと思われる。しかし、謙信ならやっても不思議ではないと印象を受ける。この男、武将最強だけではなく実に男らしく人間味が溢れる。

「敵に塩を送る」ということわざは上杉謙信が由来となっている。川中島の戦いのあとの1567年、武田家は今川家との同盟を破棄、それに激怒した今川家が北条氏と協力し、武田領内への「塩止め(塩の輸出禁止)」を周辺諸国に要請。

武田領は甲斐と信濃(現在の山梨・長野)で海に面しておらず自国での塩の生産ができなかった。これを見た上杉謙信は「甲斐の国の民が苦しむ」と塩の輸出をしたことから。

義を重んじる上杉謙信の人格を伝えるストーリはまだあり、敵であった信玄が死の床にいるときも謙信に尊敬の念の言葉を跡取りの勝頼に語っている。北条氏もまた、「謙信は骨になろうと義理を通す」と敵にそこまで言わせる魅力溢れる武将である。