おそらく戦国トップ3の軍師だと思う

武田軍の天才軍師といえば山本勘助。1493年~1561年、享年69歳。戦国最強と謳われる武田騎馬軍団をつくりあげ、羽柴秀吉の天才軍師、竹中半兵衛と並び「戦国最高軍師」と知られる。

竹中半兵衛、黒田官兵衛、山本勘助がおそらく戦国トップ3の軍師で、その次のランクが太田道灌、島左近、羽柴秀吉、明智光秀などではないだろうか。片目で隻脚の風貌もよく目立つことから、江戸時代に多く書かれた軍記物でも人気は高かったが、じつは長らくその実在が疑問視されていた。

というのも、この山本勘助に関する記述はすべて江戸時代に書かれた「甲陽軍艦」に載っていたもので、それ以外には彼の実在を証明する証拠がなかった。そのため、架空の人物と言われてきたが、信玄の書状に「山本勘助」の名が記された、その存在を裏付ける証拠も近年になって見つかっている。

山本勘助は三河国宝飯群の出身となっているが、実のところ出自については詳しく分かっていない。若くして諸国を放浪し、兵法を極め、駿河の今川義元に仕官を願い37歳から9年間滞在したが、片目で足が不自由だったことから、義元は彼を家来に採用しなかった。

この後、勘助は甲斐へ向かう。武田晴信(信玄)の採用基準は「使える人材か否か」に重点を置かれるため、容姿では判断せずに兵法者として推挙される。この時、山本勘助50歳を過ぎての人生初の就職で正社員である。

人生50年と謳われた時代、引退する年齢になっての歴史上への幕開けである。片目で脚は不自由だが、戦略のみならず武芸にも秀でていて戦闘も得意だった。100名ほどの足軽を引連れ、戦場で大暴れをしたという。

1544年、武田氏は諏訪に侵攻して諏訪頼重を滅ぼし自害させる。この時、晴信は頼重の娘を側室に迎えようとする。重臣たちが猛反対のなか、勘助だけは「その姫がいずれ男子を産めば、諏訪家の跡継ぎとなり、武田家との絆は深まるはず。

つまり、武田氏による諏訪支配が盤石になるとして賛成した。この晴信と諏訪頼重の娘との間に生まれたのが、後に武田家最後の当主となる武田勝頼である。軍略の天才と軍略の神との戦いとなる、1561年、川中島の戦い第四次合戦。武田軍は甲斐より2万の軍勢を率いて、軍略の神「上杉謙信」と対峙する。

ここで、勘助は「啄木鳥作戦」軍勢を二手に分けての挟み撃ちを武田信玄に信玄する。この勘助の作戦を逆手にとった上杉謙信は濃霧の中を武田本隊目指して進撃し、猛攻の結果、武田家は壊滅的な損害となった。

作戦失敗の責任を痛感した勘助は、死を決意してわずかな家来とともに果敢な突撃をおこない討ち死にする。