武田信虎の嫡男としてこの世に誕生

織田信長が媚を売るくらい恐れた武将が武田信玄。1521年~1573年、享年53歳。武田氏の家紋は「四つ割菱」武田信玄は、甲斐守護、武田信虎の嫡男として生まれる。

剃髪して還俗する前の名は晴信とした。武田家は清和源氏の正統でもあり、彼の家柄は数ある戦国大名の中でもトップクラス。しかし、名門出身ながらかなりの苦労人。

父、信虎は次男の武田信繁を寵愛するようになり、そのうち信繁に家督を相続させるため、信玄を廃嫡しようと画策する。父の意図を素早く察した彼は、先制攻撃に出る。板垣信方や甘利虎秦といった重臣を味方に引き入れクーデターを引き起こす。そして父を隣国の駿河へ追放してしまう。

信虎は、甲斐国内の支配体制を強化して、武田家を強力な戦国大名に成長させた立役者であるが、そのせっかちな改革は多くの家臣から恨みをかっていた。また、たび重なる出兵により国土は疲弊、民も信虎を恨んでいたと伝えられる。

信虎の追放直後、信濃より小笠原長時と諏訪頼重が軍勢を率いて侵攻してくるが、信玄はこれを撃退。すぐに反抗作戦に転じ、諏訪頼重と不仲であった諏訪家傍流の高遠頼継を懐柔して、これと連合して諏訪に侵攻。

上原城を落城させ諏訪地方を制圧。そして、1550年に中信地域に勢力を張っていた信濃守護、小笠原長時を滅ぼす。信濃全土の占領も、もはや目前。信濃を併合すれば、信玄の支配地は50万石を越え、上洛を視野に入る。

天下取りの戦略が見えた1553年、長尾景虎(のちの上杉謙信)が軍勢を率いて信濃へ侵攻。これが武田信玄の上洛を不可能にさせたといってもいいだろう。川中島の戦いでは弟の武田信繁、軍師の山本勘助という貴重な重臣を失うこととなる。

その後も、破竹の勢いで天下への道を進んでいた信玄は甲斐、信濃、駿河の三国にくわえて上野国の西半分を領有する一大勢力となっていた。京までの途上に立ちはだかる勢力は、織田信長と同盟者の徳川家康のみ。

将軍・足利義昭からの上洛要請もあり、今川家との条約を破棄し侵攻、敵対していた相模の北条氏と和睦。武田軍は遠江や三河、さらには東美濃などから侵攻して、織田や徳川の支城を次々に攻略。

徳川家康の軍勢などと戦い、上洛を目の前にした三河の野田城を陥落させた直後に吐血し病状が悪化する。信玄は長篠城まで後退し静養したが、回復せず甲斐への撤退を決意する。

その帰郷の途上、信濃国の近場までさしかかったところで、寿命が尽きてしまう。実は「最強の騎馬軍団」を率いたとあるが、この騎馬隊はどうも創作ではないかという疑問がある。